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先生からのメッセージ(2)

卒業録音の功罪について その2


才能教育で発行される卒業証書は、高校や大学の卒業証書ではなく、社会的な効力はなにもありません。それはあくまでも意欲作りのためのものです。言い換えれば、外的効力は何もなく、あくまでも生徒個人の内面的なものです。だが一言に「意欲作り」と言ってもいろいろなレヴェルがあります。生徒は皆、曲が先に進みたいという意欲はあると思いますが、同時に、より良い演奏をしたいという意欲が出てきます。後者がよく育ってくると、いつの間にか曲が進むことについては感心がなくなるでしょう。本当に良く育った生徒はむしろ進みたくなくなるでしょう。先の事ばかり考え、他の人と比べてばかりいる心は、雑音のようなものです。それが、只今自分が取り組んでいる音に対する感性を汚します。

教材の中で特に重要なものが卒業課題曲に選ばれているわけですが、ポイントとなるのは、それをどこまで深く追求できるかという事です。曲が進むということは横軸(曲数や難易度)、如何に立派に弾けるかということは縦軸(高さ、深さ)と言っていいでしょう。楽曲は世界中で数えきれない人が弾いていますから、価値があるのは縦軸すなわち如何に弾くかです。大体弾けたというところで「弾き散らかす」だけならば、自分を高めるチャンスを自ら放棄していることになります。特定の大事な曲で、如何に深く追求するかという経験をすれば、生徒はそれ以外の曲でも高さを追求する人に育ちます。

才能教育で立派な生徒をたくさん育てておられる先生の多くはこう言われます。卒業課題曲が漸く曲が弾けるようになったあとで1000回弾かせたら本当に立派になる」と。そうすると音に磨きがかかってきます。ここで大事なのは、生徒が自分の音に注意を払わずに(本当に聴かずに)無闇に1000回弾いても意味がないということ。工夫を積み重ねながら、勉強すればするほど自分の至らなさに気付くような繰り返しでなければ高さや深さには繋がりません。レッスンは生徒に新しいことに気付いてもらう機会です。しかし生徒のほうで「私はもう弾けている」という慢心があったり、先生の言葉に対して馬耳東風の状態ならば、レッスンは空回りになり、生徒はそこから上の段階には行けません。


ところで、小林秀雄の作品「モオツァルト」にこんな一節があります。「モオツァルトは、ピアニストの試金石だとはよく言われる事だ。彼のピアノ曲のような単純で純粋な音楽の持続に於ては、演奏者の腕の不正確は直ぐ露見せざるを得ない。曖昧なタッチが身を隠す場所がないからであろう。だが、浪漫派以降の音楽が僕等に提供して来た誇張された興奮や緊張、過度な複雑、無用な装飾は、僕等の曖昧で空虚な精神に、どれほど好都合な隠所を用意してくれたかを考えると、モオツァルトの単純で真実な音楽は、僕等の音楽鑑賞上の大きな試金石でもあると言える。」と。しかしこれは、ピアニストに限ったことではありません。むしろ、自分で音程を作らなければならない弦楽器には尚更言えるのではないかと思います。音階でできているようなモーツァルトの音楽は、音階それ自体が美しくなければどうしようもありません。大げさな表現がなく微妙なニュアンスに富むこの作曲家の音楽は、何よりも音そのものに対するセンスが命です。「音楽鑑賞上の大きな試金石」とは、演奏する者にとっては、「お前は本当に音を聴いているのか」と迫られているということ。自分を知ることは実に難しい。知らないのは自分だけということはままあることです。

僕が生徒であった頃は、最後の卒業課程の曲がモーツァルトの協奏曲でした。鈴木鎮一先生は、モーツァルトの協奏曲が立派に弾ければなんでも弾けるとよく言っておられました。東京にいる姪が今、才能教育のある素晴らしい先生に習っているのですが、そのクラスでは、モーツァルトの録音をする前にその後の課程の研究科の曲の録音をし、最後にモーツァルトの録音をするそうです。また、一流オーケストラの入団テストには必ずモーツァルトの協奏曲があります。モーツァルトを聴けば、もっと難しい曲を聴くよりも、演奏者のテクニックと音楽性が分かるからです。純度の高いモーツァルトの音楽には、音それ自体の美しさ、清潔なテクニックとイントネーション(音程)、そして音楽性が必須。だから僕のクラスでは、研究科の全ての録音が終わった生徒に、モーツァルトは必ず復習してもらっています。僕自身、50年弾き続けて尚楽しく、もっと立派に弾きたいと思います。

よく勉強する生徒は、逆に先生に鈴木先生の偉大さを教えてくれます。20年くらい昔のことですが、ある生徒のモーツァルトの録音をして、こちらのほうが心から感動したことがあります。録音の後に思わずお母様に、「これから僕が教えることはあまりなさそうだから、もっといい先生につくことを考えてもいいのではないでしょうか。」と言ったことを覚えています(残念なことに、今から考えると、その子がその後についた先生は、適切ではなかったかもしれませんが・・・その子は手を壊してしまいました)。当時は、伴奏は生のピアノではなく、カセットテープレコーダからの粗末な音に合わせての録音でしたが、あのような素晴らしい演奏は、その後お目(耳)にかかっていません(またそのような演奏を聴けるのを楽しみにしています)。その子のお母様は、音楽は全くの素人でした。愚直に鈴木先生の言われた通りにやっておられただけです。お手本を数限りなく聴かせ、前の曲をたくさん復習させ、1000回繰り返しなさいと言われたら1000回繰り返しました。要するに余計なことを考えずに、「鈴木先生の言われるとおりにやれば大丈夫です」と言う僕を信じて実行してくださっただけです。「卒業録音レース」にも無縁でした。例えばプロの演奏家になるには、そういう練習の他にやるべきことがあります。スケール、様々なテクニックのシステマティックな練習、色々なスタイルの沢山の曲を弾くこと、和声法やピアノの勉強も必要でしょう。しかしそれらは「核」になるものではありません。あくまでのその周辺のもの、補強するものに過ぎません。そしてプロの演奏家でも、感動させるような演奏をする人は、一つの曲を徹底的に勉強し直し、し直し、を繰り返し研究されています。素晴らしい演奏家と身近に接していると、彼らが音楽に対して本当に謙虚であることが分かります。一音一音に対する追求の仕方が一般の演奏家とは比較にならないほど深い人、それが一流というわけです。

そして、良い演奏、人に感動を与える演奏にプロもアマチュアもありません。非常に上手でも、「スゴイなあ」と感心はしても感動しない演奏がありますね。それは「芸術」ではなく「曲芸」です。一聴しただけで演奏者のエゴだけが感じられるような演奏もあります。音に人物が表れるのです。心を動かされる演奏とは、演奏者が自分を見せびらかすのではなく、日々音楽に奉仕し、聴いてくださる人に対して奉仕するような、謙虚な心をもった人の演奏です。そういう演奏者の生き方にエゴがないからこそ、逆に共感を呼ぶのでしょう。正に芸術は人なりです。鈴木先生は、もっとシンプルに。「音は人なり」と言われました。

音楽で人を育てるという意味は、ここにあるのでしょう。


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5月レッスン予定

松本尚三クラス 月13,20,27 火 7,21,28 水 1, 8,22 木 2, 9,23 金10,17,24 土11,18,25 松本みゆきクラス 水 8,15 木  9, 16, 23 グループレッスン 26日 御影公会堂

4月レッスン予定

松本尚三クラス 月 1,8, 29 火 2,9,30 水 3,10,24 木 4,11,25 金 5,12,26 土 6,27 松本みゆきクラス 水 3,10,24 木 11,18,25 グループレッスン(リハーサル) 7日(御影公会堂) リハーサル 13日(卒業生と6巻以上の生徒のみ、神戸文化ホール練習室) 卒業演奏会 14日 灘区民ホール

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